升田鉄三は礼文島の医師!経歴・生い立ちは?妻・子供やがんの情報も!【たけしの家庭の医学】

こんにちは!

なおこです。

 

2019年11月12日放送の「名医とつながる!たけしの家庭の医学」に礼文島(れぶんとう)の島民約2500人の命を守る令和の赤ひげ先生として升田鉄三(ますだ てつぞう)先生が登場します。

「赤ひげ先生」の元ネタは昭和40年公開の映画『赤ひげ』に登場する医師で、貧しい人や難しい病気の患者さんもこころよく診るという設定から、理想的な医師の代名詞としてよく使われるそうですね。

どんな先生なのか楽しみです!

 

今日は升田鉄三先生生い立ち経歴結婚されているのか子供はいるのかがんを患っているという情報について調べてみました!

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升田鉄三先生ってどんな人?

生い立ちや経歴、結婚されているのかどうかなどを調べてみましたよ。

生い立ち

Profile

名前:升田鉄三(ますだ てつぞう)

生年:1954年

出身地:北海道礼文町

升田鉄三先生は北海道礼文町の漁師の家に四人兄弟の三男として生まれました。

 

子供の頃から付き合いのある友人でもあり、患者さんでもある男性は「子供の頃から優秀だった」「漁師になるために生まれてきた自分たちとは目指すところが違っていた」と語ります。

 

兄弟の上二人をは不幸にも亡くなってしまい、「丈夫な子に育つように」と「鉄三」と名付けてもらったのだそう。

 

名付け親はなんと近所のおばさん。

 

昔はそういうこと(近所の人が名前を付ける)ってよくあったんでしょうか。ちょっと面白いですね。

学歴は?

升田鉄三先生の学歴はどのようなものなのでしょうか。

 

家業が漁業という事もあり、小学校・中学校は地元の学校に通いながら家業を手伝ったのだそう。

高校進学は小樽で働く4つ上の姉を頼りに、礼文島を出たといいます。

高校時代はお寺に下宿

 

既に数十年、島出身で医師になったものがいなかったため「礼文島出身の医者」を目指し、高校卒業後は秋田大学医学部に入学します。

礼文町から奨学金を受けて入学したのだそうですよ。

1979年、秋田大学医学部卒業

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経歴①大学卒業から研修医時代

1979年に秋田大学医学部を卒業してからの経歴は以下のように紹介されています。

1979年、秋田大学第一外科に入局

教授はがんミサイル療法の先駆者である高橋俊雄教授

 

同年12月、高橋教授が以前在籍していた京都府立医大の関連病院の滋賀県立八日市山口外科病院へトランク(免許取りたての医師が研修すること)

 

外来、入院患者の診察、手術の助手、当直などを経験

診察室の後ろで教科書を見てから即興でKocher法による右肩関節脱臼の整復を行った。

病院は名神高速道路近くにあり、交通事故の死亡者が搬送され、検案に立ち会うことも多かった。

 

1980-1982年、秋田県内で消化器内科や循環器内科を研修

1982年-1984年、青森県立の病院で研修

1984年、秋田大学に戻り、臨床医として外科手術や当直をしながら学位研究

寝る間も惜しんで日々過ごした。

医師として新米だったころは、どのような患者さんが来るか心配で、心窩部(みぞおちのあたり)に痛みをかかえていたといいます。

なんと、「あとから考えると、ストレス性の胃潰瘍だった」というくらいなので、痛みを我慢して診察を受けずに研修に打ち込んでおられたんでしょうか…。

今は島民の健康を一手に引き受ける升田鉄三先生にも、そういう時代があったんですね。

 

秋田ですごした研修医時代には、初めてYS-11(第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機)に乗ったり、近江牛を食べたり、ゴルフをしたり、ポルシェでドライブさせてもらったり…と思い出を語っておられます。

 

娯楽や便利な施設など、礼文島にはなかったものとの出会いは思い出深いでしょうね。わたしも都会に出てきた地方出身者なので、そういう気持ちわかります!

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経歴②礼文島の診療所に就任

1986年帰島し、礼文町国民健康保険船泊診療所・所長として着任

たった一人の診療所常勤医師として勤務

着任初日、礼文空港に家族で降り立つと町長を始めとする沢山の人が出迎えてくれたそう。

そしてその足で診療所へ連れていかれると、すでに患者さんが待っていたといいます。

看護師さんに医師不在中滞っていた薬の処方を依頼されたり、船と岸壁の間に挟まれて大けがをした人の対処をしたりと大忙し。

 

島の人たちにとっては、待ちに待った医師の到着だったでしょうね。

 

長年使われていなかった手術室の掃除と消毒、備品の整理と準備、看護師の再教育など、本当に診療所を一から整えて行った升田鉄三先生。

普通の病院に勤務する医師には経験しえない、ご苦労がたくさんあったでしょうね。

升田鉄三先生の仕事内容は?

現在は1日の平均外来は77人で、平日の診療に加えて夜間・休日の救急患者を24時間受け入れています。

そのほか訪問診療や老人ホームの入居者の診察もしているそう。

職場の定期健診やガン検診

乳幼児健診

保育所健康診断

小・中学校の内科健診

高校の内科検診

乳幼児予防接種

 

患者の方は整形外科の診療が多いそう。

高齢の方が多いということもあり骨粗鬆症や転倒による骨折などが多いんですね。

漁師さんは肩や腰が悪くするひとも。

 

升田さんはよほど治療が難しいもの以外は住み慣れた地域での治療をすることに力を入れています。

患者さんの負担軽減も考えておられるんですね。

 

多くはない物のドクターヘリを使う機会があったり、産婦人科の研修もいかして礼文島で赤ちゃんを取り上げたり、レアケースにも対応する必要があるようです。

日の患者数の平均が77人って、とてつもない数ですよね。「たけしの家庭の医学」を観ましたが、車で訪問医療をしたり、すばやく治療に関する高度な判断をしたり、本当にすごいです!敬服します…。

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結婚した妻や子供は?

升田鉄三先生は結婚されていて、留美子さんというがおられます。

子供さんは、息子さんが2人おられます。

長男は教師に、次男は医師になったのだそうですよ。

 

升田鉄三先生のインタビューで、高校時代、医学部に進学して離島医療に貢献することをすすめたのは妻と語っておられます。

同級生だったんですね…。なんだかすてき。

 

升田鉄三先生の妻留美子さんの伯父が、かつて医師として島で診療にあたりながら「礼文島の奇病」と呼ばれたエキノコックス症について研究した先生だったのだそう。

当時から聡明だったであろう升田鉄三先生に「島の医師になってほしい」という期待があったのでしょうね。

引用元:https://www.m3.com/open/iryoIshin/article/679382/

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升田鉄三先生はがんって本当?

升田鉄三先生は過去にがんを患っておられたそうです。

ご自身で「低悪性のりんぱ腫」と語っておられました。

 

ネットで調べた限りでは

「年単位で緩やかに進行します。腫瘍量が少ない場合は、経過観察も可能です。代表的な病型として、濾胞性リンパ腫、MALTリンパ腫などがあります。」

とされています。

引用元:https://ganjoho.jp/public/cancer/ML/

 

幸い代理の医師を島に呼ぶことができ、6カ月の休職をして治療の甲斐あって寛解…!

よかったですね!

今日も、今私がいる遙か北の地で升田鉄三先生はがんばっておられるんですね。

息子の晃生(あきお)さんが島の医師を継ぐことに

升田鉄三先生の次男の晃生(あきお)さんが医師になり、2020年春には診療所を継いでくれることが決まっているそうですよ!

晃生(あきお)さんは台風19号の医療救護班にも参加した方で、礼文島に戻るための準備として現在は様々な診療科の研修されているのだそう。

 

なんと…!島民のみなさんもうれしいでしょうね…

 

なんでも、晃生(あきお)さんは升田鉄三先生から「礼文島の医師になってほしい」と言われたことは一度もないのだそう。

離島医療の大変さを誰よりも知っている升田鉄三先生だからこそ、診療所を継いでほしいとは言わなかったのかもしれません。

 

「礼文島の医療を引き継いで発展させるのが僕の医師としての指名」

と語る晃生(あきお)さん、とても優しそうな方でした。

升田鉄三先生の意思を継いで素晴らしいお医者さんになることでしょうね。升田鉄三先生、とても安堵されていることでしょうね。

4 COMMENTS

カネサカ ヨシマロ

先生の献身的な診療の姿には、神々しさを感じ得ません。私も数々の病を持っており、島民の皆様の思いは痛いほど理解出来ます。来春は息子さんが後を継がれるよし、本当に嬉しいかぎりです

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mamaka

コメントありがとうございます!
先生の優しさや誠実さは本当に神がかってましたね。
お身体お大事になさってください。

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カネサカ ヨシマロ

先生にはお身体をいたわり、何時までも奥様とお元気にお過ごし下さいますよう、切にお祈りいたします。

返信する
mamaka

コメントありがとうございます!
本当に、ご健康で幸せに過ごされることを願ってやみません。

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